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蓮如上人 御文 3-6 願行具足

それ南無阿弥陀仏ともうすは、いかなるこころぞなれば、まず「南無」という
二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また『南無』というは願な
り。「阿弥陀仏」というは行なり。されば雑行雑善をなげすてて、専修専念に
弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまえとおもう帰命の一念おこるとき、
かたじけなくも遍照の光明をはなちて、行者を摂取したもうなり。このこころ
すなわち『阿弥陀仏』の四つの字のこころなり。また発願回向のこころなり。
これによりて『南無阿弥陀仏』という六字は、ひとえに、われらが往生すべき
他力信心のいわれをあらわしたまえる御名なりとみえたり。このゆえに願成就の
文には『聞其名号信心歓喜』(大経)ととかれたり。この文のこころは、その
名号をききて信心歓喜すといえり。その名号をきくというは、ただおうように
きくにあらず。善知識にあいて、『南無阿弥陀仏』の六つの字のいわれをよく
ききひらきねれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。
かるがゆえに、信心歓喜というは、すなわち信心定まりぬれば、浄土の往生は
うたがいなくおもうてよろこぶこころなり。このゆえに弥陀如来の五劫・兆載
永劫の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたもうことの、ありがたさ、
とうとさをおもえば、なかなかもうすもおろかなり。されば『和算』(正像末)
にいわく『南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には
還相回向に回入せり』といえるはこのこころなり。また『正信偈』にはすでに
『唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩』とあれば、いよいよ行住坐臥時処諸縁を
きらわず、仏恩報尽のために、ただ称名念仏すべきものなり。
                      あなかしこ、  あなかしこ、
文明六年十月二十日 書之

# by nmfksgkv5 | 2012-07-18 16:20 | 一期一会

蓮如上人 御文 3-5 諸仏の悲願

そもそも、諸仏の悲願に弥陀の本願のすぐれましましたる、そのいわれをくわしく
たずぬるに、すでに十方諸仏ともうすは、いたりてつみふかき衆生と、五障・三従
をば、たすけたまわざるなり。このゆえに、諸仏の願に阿弥陀仏の本願はすぐれたり
ともうすなり。さて弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生をすくいましますぞ
ともうせば、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人にいたるまでも、みなことごと
く、もらさずたすけたまえる大願なり。されば一心一向にわれをたのまん衆生をば、
かならず十人あらば十人ながら、極楽へ引接せんとのたまえる、他力の大誓願力なり。
これによりて、かの阿弥陀仏の本願をば、われらごときのあさましき凡夫は、なにと
ようにたのみ、なにとように機をもちて、かの弥陀をばたのみまいらすべきぞや。
そのいわれをくわしくしめしたもうべし。そのおしえのごとく信心をとりて、弥陀を
も信じ、極楽をもねがい、念仏ももうすべきなり。
こたえていわく、まず、世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏ともうすは、
ただなにの分別もなく、南無阿弥陀仏とばかりとなうれば、みなたすかるべきように
おもえり。それはおおきにおぼつかなきことなり。京、田舎のあいだにおいて、浄土
宗の流儀まちまちにわかれたり。しかれども、それを是非するにはあらず。ただわが
開山の一流相伝のおもむきをもうしひらくべし。それ、解脱の耳をすまして、渇仰の
こうべをうなだれて、これをねんごろにききて、信心歓喜のおもいをなすべし。それ
在家止住のやから、一生増悪のものも、ただわが身のつみのふかきには目をかけずして、
それ弥陀如来の本願ともうすは、かかるあさましき機を本とすくいまします、不思議の
願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心ということ
をひとつこころうべし。さて他力の信心という体は、いかなるこころとぞというに、
この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまえるいわれを、
この南無阿弥陀仏のわれらをたすけたまるいわれを、この南無阿弥陀仏の名号にあら
わしましましたる御すがたぞと、くわしくこころえわけたるをもって他力の信心をえ
たる人とはいうなり。この『南無」という二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみ
たてまつりて、たすけたまえとおもいて、余念なきこころを『帰命』とはいうなり。
つぎに『阿弥陀仏』という四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさず
すくいたもうこころなり。このこころをすなわち摂取不捨とはもうすなり。摂取不捨と
いうは、念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにおさめとりてすてたまわずといえるここ
ろなり。されば、この南無阿弥陀仏の体は、われらを阿弥陀仏のたすけたまえる支証の
ために、御名を、この南無阿弥陀仏の六字にあらわしたまえるなりときこえたり。
かくのごとくここえわけぬれば、われらが極楽の往生は治定なり。あら、ありがたや、
とうとやおもいて、このうえには、はやひとたび弥陀如来にたすけられまいらせつるのち
なれば、御たすけありつる御うれしさの念仏なれば、この念仏をば、仏恩報謝の称名とも
いい、また信のうえの称名とももうしはんべるべきものなり。
                      あなかしこ、  あなかしこ、
文明六年九月六日 書之

# by nmfksgkv5 | 2012-06-21 15:07 | 一期一会

蓮如上人 御文 3-4 大聖世尊

それ、倩(つらつら)人間のあだなる体を案ずるに、生あるものは必ず死に帰し、
さかんなるものはついにおとろうるならいなり。さればただいたずらにあかし、
いたずらにくらして、年月を送るばかりなり。これ慎に嘆きても尚かなしむべし。
このゆえに、上は大聖世尊よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれ
がたきは無常なり。しかればまれにも、うけがたきは人身、あいがたきは仏法なり。
たまたま仏法にあうことをえたりというとも、自力修行の門は、末代なれば、今の
ときは、出離生死のみちは叶い難きあいだ、弥陀如来の本願にあいたてまつらずは、
いたずらごとなり。しかるにいますでに、われら弘願の一法にあうことをえたり。
この故に、ただねがうべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて
信心決定して念仏もうすべきなり。しかれば、世の中に、ひとのあまねくこころえ
おきたるとおりは、ただ声にいだして、南無阿弥陀仏とばかりとなうれば、極楽に
往生すべきようにおもいはんべり。それはおおきにおぼつかなきことなり。されば
南無阿弥陀仏ともうす六字の体は、いかなる心ぞというに、阿弥陀如来を一向に
たのめば、ほとけの衆生をよくしろしめして、すくいたまえる御すがたを、この
南無阿弥陀仏の六字にあわしたもうなりとおもうべきなり。
しかれば、この阿弥陀如来をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をば
たすかるべきぞなれば、なにの煩いもなく、もろもろの雑行・雑善を投棄てて、
一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、ふた心なく信じたてまつれば、その
たのむ衆生を、光明をはなちて、そのひかりのなかにおさめいれおきたもうなり。
これすなわち、弥陀如来の摂取の光明の光益にあずかるとはもうすなり。またh、
不捨の誓益ともこれをなづくるなり。かくのごとく、阿弥陀如来の光明のうちに
おさめおかれまいらせてのうえには、一期のいのちつきなば、ただちに真実の報土に
往生すべきこと、そのうたがいあるべからず。このほかには、別の仏をもたのみ、
また余の功徳善根を修しても、なににかはせん。あら、とうとや。あら、ありがたの
阿弥陀如来や。かようの雨山の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞや。
ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、こえにとなえて、その恩徳をふかく報尽
もうすばかりなりとこころべきものなり。
                       あなかしこ、  あなかしこ、
文明六年八月十八日 

# by nmfksgkv5 | 2011-12-12 16:58 | 一期一会

蓮如上人 御文 3-3 川尻性光

此の方川尻性光門徒の面々において、仏法の信心のこころえはいかようなるらん。
まことにもってこころもとなし。しかりといえども、いま当流一義のこころを
くわしく沙汰すべし。おのおの耳をそばだててこれをききて、このおもむきを
もってほんとおもいて、今度の極楽の往生を治定すべきものなり。それ、
弥陀如来の念仏往生の本願ともうすは、いかようなることぞというに、在家
無智のものも、また十悪五逆のやからにいたるまでも、なにのようもなく、
他力の信心ということをひとつ決定すれば、みなことごとく極楽に往生するなり。
さればその信心をとるというは、いかようなるむつかしき事ぞというに、なにの
わずらいもなく、ただ一筋に、阿弥陀如来をふたごごろなくたのみたてまつりて、
余へこころをちらさざらんひとは、たとえば十人あらば十人ながら、みな仏に
なるべし。このこころひとつをたもたんは、やすきことなり。ただこえにいだして
念仏ばかりをとなうひとは、おおようなり。それは極楽には往生せず。この念仏の
いわれをよくしりたるひとこそ、ほとけになるべけれ。なにのようもなく、弥陀を
よく信ずるこころだにもひとつにさだまれば、やすく浄土へはまいるべきなり。
このほかには、わずらわしき秘事といいて、ほとけをもおがまぬものはいたずらもの
なりとおもうべし。これによりて、阿弥陀如来の他力本願ともうすは、すでに末代
いまのときの、つみふかき機を本としてすくいたもうがゆえに、在家止住のわれら
ごときのためには相応したる他力の本願なり。あら、ありがたの弥陀如来の誓願や。
あら、ありがたの釈迦如来の金言や。あおぐべし、信ずべし。しかれば、いう処の
ごとく心得たらん人々は、これをまことに当流の信心を決定したる、念仏業者の
すがたなるべし。さて、このうえには、一期のあいだ申す念仏の心は、弥陀如来の
われらをやすくたすけたまえるところの、雨山の御恩を報じたてまるらんがための
念仏なりとおもうべきものなり。
                      あなかしこ、  あなかしこ、
文明六年七月五日 

# by nmfksgkv5 | 2011-11-21 18:49 | 一期一会

蓮如上人 御文 3-2 如説修行・成仏

それ諸宗のこころまちまちにして、いずれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。
もっとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらにうたがいなし。しかるに、
末代このごろの衆生は、機根最劣にして、如説に修行せんひとまれなる時節なり。ここに
弥陀如来の他力本願というは、いまの世において、かかるときの衆生をむねと助けすくわんが
ために、五劫があいだこれを思惟し、永劫があいだこれを修行して、造悪不善の衆生を佛に
なさずはわれも正覚ならじとちかごとをたてましまして、その願すでに成就して、阿弥陀と
ならせたまえる佛なり。末代いまのときの衆生においては、このほとけの本願にすがりて
弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するということあるべからずるなり。そもそも
阿弥陀如来の他力本願をば、なにとように信じ、またなにとように機をもちて助かるべきぞ
なれば、それ、弥陀を信じたてまつるというは、なにのようもなく、他力の信心という、
いわれをよくしりたらんひとは、たとえば十人は十人ながら、みなもって極楽に往生すべし。
さてその他力の信心というは、いかようなることぞといえば、ただ南無阿弥陀仏なり。この
南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくわしくしりたがるが、すなわち他力信心のすがたなり。
されば、南無阿弥陀仏という六字の体をよくよくこころうべし。まず『南無』という二字は
いかなる心ぞといえば、ようもなく、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生助けたまえ
とふたごこなく信じまいらする心を、すなわち『南無』とはもうすなり。つぎに『阿弥陀仏』
という四字はいかなる心といえば、いまの如くに弥陀を一心にたのみまいらせて、うたがいの
こころのなき衆生をば、かならず、弥陀の御身より光明をはなちててたらしましまして、その
ひかりのうちにおさめおきたまいて、さて、一期のいのちつきれば、かの極楽浄土へおくり
たまえる心を、すなわり『阿弥陀仏』とはもうしたてまつるなり。されば、世間に沙汰する
ところの念仏というは、ただくちにだにも南無阿弥陀仏ととなうれば、たすかるようにみな
ひとのおもえり。それはおぼつかなきことなり。さりながら、浄土一家においてさように
沙汰するかたもあり。是非すべからず。これはわが一宗の開山の進めたまえるところの、
一流の安心のとおりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききて、すみやかに
今度の極楽往生をとぐべし。かくのごとく心えたらんひと、名号をとなえて、弥陀如来の
われらをやすくたすけたまえる御恩を、雨山にこうぶりたる、その仏恩報尽のためには、
称名念仏すべきものなり。
                           あなかしこ、  あなかしこ
文明六年八月五日書之 

# by nmfksgkv5 | 2011-11-02 10:04 | 一期一会